トーベ・ヤンソン – ムーミンの生みの親

トーベ・ヤンソンとパートナーでグラフィックアーティストのトゥーリッキ・ピエティラは、自分たちの作品コレクションを、1986年にタンペレ美術館に寄贈しました。ムーミン美術館は、そのコレクションを保存管理しつつ、ヤンソンのムーミン関連のアートコレクションを館内に展示、また世界各地にて巡回展などを行っています。ムーミン美術館では、ピエティラが制作した、門外不出のムーミンの立体作品も展示しています。ムーミン美術館は、フィンランドで唯一、女性アーティストに捧げたミュージアムでもあります。

トーベ・ヤンソンは、1914年8月9日ヘルシンキに生まれました。彫刻家ヴィクトル・ヤンソンを父に、挿絵画家でイラストレーターのシグネ・ハンマルステン=ヤンソンを母に、その第一子として誕生。トーベには二人の弟、ペル・ウーロフ(1920年生)とラルス(1926年生)がいます。トーベ・ヤンソンは幼少期から文章を書いたり絵を描いたりすることに興味を持っていました。トーベが初めてムーミントロールを思わせるキャラクターを描いたのは10代の頃のこと。家族で滞在していたペッリンゲ群島の夏の家にあった離れの厠の壁に描かれたもので、弟と議論の末、腹立ち紛れに描いた落書きでした。

©Moomin CharactersTM.

トーベ・ヤンソンとラルス・ヤンソン

ヤンソンは、子どもの頃から画家になりたいと思っていました。まずストックホルムとヘルシンキで美術を学んだのち、パリにも美術留学しています。1930年代には、文化政治誌『ガルム』で挿絵画家として働き始めました。よりムーミントロールに近いキャラクターが生まれたのは戦時中のこと、ガルム誌上に自分のサイン代わりとして用いたのが始まりでした。 

冬戦争が勃発すると、不安感から絵画制作が困難になっていきました。ヤンソンは戦争への不安から逃れるための場所を求め、おとぎ話の世界を創造しました。そこは、緑あふれる谷で、ムーミンたちが仲間と一緒に楽しく平和に暮らしていました。こうしてムーミン小説一作目 Småtrollen och storaöversvämningen (『小さなムーミントロールと大きな洪水』)が生まれたのです。この本がスウェーデン語で出版されたのは1945年のこと。その後ムーミンの本は合計で13冊出版されました。最後の本は、1980年出版、トーベ・ヤンソンと弟で写真家のペル・ウーロフ・ヤンソンが一緒に制作した写真絵本『ムーミンやしきはひみつのにおい』です。 

トーベ・ヤンソンは、挿絵画家であり作家、画家でもあり、風刺作家、コミックス・アーティストでもありました。ムーミン小説執筆の傍、トーベは長編小説や短編集なども出版しています。他にもモニュメンタルアートや他作家著作作品への挿絵制作など積極的に活動。1950年代には、ムーミン小説と並んで、ムーミンをテーマとした壁画、絵本、コミックスも制作しています。ムーミン・コミックスの影響により、ムーミン挿絵の作画スタイルがより明瞭に、簡素化されました。

トーベ・ヤンソンのアトリエはヘルシンキのウッランリンナ地区にありました。このアトリエで制作活動を行い、冬を過ごしました。ムーミン小説執筆にあたり、ヤンソンはまず物語を執筆してから挿絵を描き、そして自分でレイアウトなどのデザインも担当しています。

海はヤンソンにとっていつも心の拠り所でした。幼い頃から家族とともに夏はポルヴォー近海のペッリンゲ群島で過ごし、のちに、パートナーでグラフィックアーティストのトゥーリッキ・ピエティラ(1917–2009)とともにクルーヴハル島で30もの夏を過ごしています。

トゥーリッキ・ピエティラは、フィンランドのグラフィックアート界に新風を吹き込んだ開拓者であり指導者でした。ピエティラは彫刻も学んでおり、トーベ・ヤンソンとともに制作した立体作品やムーミンのキャラクターたちにもその芸術性が表れています。立体作品の制作には、二人の友人であり医師でもあったペンッティ・エイストラも参加しています。

トーベが執筆し挿絵も描いた最後のムーミンの物語は、 Den farliga resan (ムーミン谷へのふしぎな旅)で1977年に出版されました。トーベ・ヤンソンが亡くなったのは、それから24年後、2001年のことでした。ムーミンの本は、現在50を超える言語に翻訳され、トーベ・ヤンソンは世界中でムーミンの生みの親として知られています。